近年では『フォードvsフェラーリ』が絶賛されたジェームズ・マンゴールド監督の2003年作品。字幕のみの配信が2週間。
死刑執行がせまっている連続殺人犯について、判決に異議がとなえられる。殺人をおかしたことは事実だが、精神面で考慮するべき要素があるというのだ。
豪雨で孤立したモーテルに、さまざまなキャラクターが逃げこんでくる。誰もが傷つき、誰もが怪しい。そして惨劇がはじまる。
このふたつの物語は、いったいどのような関係があるのか……
若手脚本家マイケル・クーニーの脚本を製作のキャシー・コンラッドが買いとり、夫のジェームズが監督することになったサイコサスペンス。
雨中に孤立したモーテルという舞台も、標的のひとりが大金をもった女性であることも、最初の被害者が「シャワーカーテンごし」に殺されることも、すべてヒッチコックの歴史的作品『サイコ』を思わせる。
実際に監督もヒッチコック作品の『裏窓』などにオーディオコメンタリーで言及しているし、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』のようにひとりひとり死んでいく展開は作中の会話でも言及される。
しかしパロディやオマージュに満ちた作品は新鮮味に欠けかねないところを、サスペンスとして惨劇がはじまる前から観客を退屈させないよう工夫をこらしている。
特に良いのが、モーテルに逃げこんでくるキャラクターを説明する序盤の構成だ。まず重傷の女性がかつぎこまれるショッキングで目を引き、そこから物事の結果と原因をくりかえし前後させて、細かな謎解きのカタルシスで興味をひきつつ、登場する人間の関係性を印象づけることに成功している。
この映画はどんでん返しの意外性で知られるが、多重人格設定が早々に明らかにされているので、モーテルの惨劇が「脳内」の「人格同士」の衝突ということは予想できる人も多いだろう。
中盤でモーテルを脱出した時、「小川の向こう」に見える「建物」へ入ると「元のモーテル」だった、という展開でほぼ真相が明らかだ。
どちらかといえば、そうした「架空性」の高い舞台だからこそ、「さまざま」な犯罪者が「なりすまし」ていることに説得力をもたらしていることが特色だ。
だから「子供」がすべてを「誘導」した「元凶」という普通なら説得力を出しづらい驚愕の真相も、犯人の「脳内」の出来事と思えば不可能ではなくなる、というわけだ。
これはヒッチコックの『サイコ』の真相を「モーテル」全体に「拡張」したがゆえの意外性と説得力だ。ただの模倣で終わらせず、進化させたからこそ、オマージュ元と同じくらいの衝撃を観客にあたえることができている。