『さくや妖怪伝』のスタッフが、2003年につくったVシネマ映画。
ジュブナイルな語り口調で怪獣のようなミニチュア特撮も楽しめた『さくや妖怪伝』と違って、こちらは特殊メイクの妖怪が多数登場して薄暗い画面に流血がとびちるハードボイルドアクション。
消えゆく被差別者を妖怪におきかえつつ、雰囲気はどこまでも真面目な時代劇。デジタル技術を完全に排して、特殊メイクやワイヤーアクションだけの妖怪の造形は好きな人は好きなはず。
ダリオ・アルジェント監督を一躍巨匠の座に押しあげた、1974年のサスペンス映画が初配信。
同監督の日本ヒット作『サスペリア』に便乗して、勝手に続編のような邦題にされたことで有名。
発端は、聴衆を前にしたテレパシー実験。他人の心を読む女性が、聴衆の誰から恐ろしい心を読みとってしまう。
その女性がアパートで殺害される場面を、ひとりの男性ピアニストが目撃。殺人現場にあわてて駆け込むと、不思議な絵が壁を埋めつくしていた。
現場から去っていく「茶色のレインコートの男」を追って、男性ピアニストと女性ジャーナリストが事件を追っていく……という2時間ドラマのようなサスペンス。
「ジャーロ」と呼ばれる、緻密な知的遊戯よりも惨劇のインパクトを重視したイタリアミステリ映画のひとつ。
実際、手斧を使った冒頭の惨殺から、終盤の惨めな死にざままで、血塗られた場面の印象は強い。人形が出てくる笑いと紙一重の恐怖や、主人公がくりかえし警告を受けるサスペンスなど、きわめてモダンホラー的。
しかしこの作品は、大胆な視覚的トリックを活用したり、コメディめいた日常シーンに伏線をおりこんでいて、映画でしか表現しえない本格ミステリとしても評価が高い。
特に今回配信の完全版は、劇場公開版より約20分くらい長くて主人公男女のやりとりが多い。サスペンスとしてはテンポが悪くなったという批判もされているが、真犯人につながる世界観の描写が増えたことでミステリとして充実した。
現代的で良いと思わされるのは、ジェンダーというバイアスをふみこえた語り口調。
男性ピアニストは古臭い男尊女卑な思想を持っているが、女性ジャーナリストと腕っぷしが互角で、作戦でやられたことに負け惜しみをいう。ステロタイプな男女観を自己批判している描写だ。
そして男性ピアニストは、すぐ近くに同性愛者がいることが知らされても、偏見の目を向けることはない。他人に無暗に干渉せず、距離を変えることはしなかった。
しかも、「こうしたジェンダーの越境」が「茶色いレインコートの男が実は女性」という「思想的な伏線」ともなっている。
ただ、今回配信版は近年リマスターされたものらしく、画面がクッキリしすぎているのが難点。
画面の「片隅で真犯人が画面に映っているというトリック」が、スマホやパソコンの小さな画面で視聴していることとあわせて、「質感や色調の違いから気づきやすい」。
もっとも、殺人現場のサイケデリックな色彩表現や、ひとけのない夜の街角の寒々としたムードなど、リマスターされた美しい画面ゆえの良さもある。痛し痒しか。
1981年のホラー映画。『エイリアン』原案のダン・オバノン脚本で、海沿いの静かな街で起きる恐怖を描く。
邦題こそゾンビ映画らしくアピールしているが、印象としてはカルト教団ホラーのようで、全体としてはゴシック調のオカルトホラーに近い。謎めいた事件を保安官視点で解き明かそうとする展開ともども、『世にも奇妙な物語』の一編のよう。
物語が始まるのは、まるでヨーロッパ映画のように貧しくもオシャレな海辺から。やがていくつもの死体が転がっていくが、監察医によって美しく死化粧されていく。
エロティックだったりスプラッタ―だったり、ホラーらしい悪趣味な場面もソフトフォーカスで撮影され、文芸映画のような雰囲気がある。女優も美人ぞろいで男優も味わいあり、見ているだけで心地よい。
後に『ターミネーター』を手がけるスタン・ウィンストンの特殊メイクも、リアルでグロテスクだがギリギリの清潔感があって、文芸映画のような雰囲気を壊さない。
それでいて惨劇にいたるシチュエーションにはバラエティがあり、ホラー映画としても満足できる。
どんでん返しも見どころだが、現在となっては予測しやすい古典の域か。
ここでひとつ、真相をめぐって違和感ある部分がある。「監察医」が黒幕なのだが、死体が「生き返って出ていった」ことを、わざわざ「保安官」に訴える理由がわからない。黒幕であれば、死体がどうなるかよくわかっているはずなのに。調べても解説が見つからなかったが、「1カット長回し」で黒幕が去ってから死体が「起きあがる直前に出てきた、顔が映ら」ない人物が「教えられたとおり勝手に」死体を「よみがえらせてしまった」ということなのだろうか。